山号 | 鳳凰山 |
寺号 |
西照寺 |
宗派 |
真言宗智山派 |
宗祖 |
弘法大師空海 |
開基 |
甚目龍麻呂 推古天皇6年(598年) |
御本尊 |
聖観世音菩薩 |
御詠歌 |
静たる姿 命のほとやなかからむ はだめの席にすますみ佛 |
甚目寺の西網之坊
日本に仏教が伝来してからわずか60年後のこと、甚目龍麻呂(はだめたつまろ)さんが海で漁をしていると、その網に黄金の聖観音像がかかりました。龍麻呂さんは、観音さまをお祀りするために愛知県あま市に甚目寺(じもくじ、通称甚目寺観音)を創建しました。
さらに翌年の推古天皇6年(598年)に、甚目寺の横に西網之坊(にしあみのぼう)を建立しました。
市江村の遍照院
古くより旧海部郡市江村に真言宗の大寺と伝わる遍照院がありましたが、織田信長の長島一向一揆前哨戦により村一帯は焼き討ちに遭い、遍照院は焼失してしまいました。
その際、御本尊の薬師如来像は田圃に埋めて守られ、後に掘り出されて安置されました。
東條の薬師堂
遍照院焼失後、まもなくして市江村東條(現在地)にお堂が建てられ薬師堂と呼ばれました。古い薬師如来像、同じく田圃より掘り出された弘法大師像や諸像が祀られました。
また薬師堂は江戸時代末期から大正時代まで村役場となり、明治の初めには、庫裡に市江尋常小学校の前進となる小学潜思学校が創設されました。
度々の大きな自然災害にも持ち堪え、第2次世界大戦においてはB29の襲撃を受けて焼夷弾が本堂屋根ほか境内に7発落ちましたが、焼失を免れました。
西網之坊の存続
甚目寺山内にあった西網之坊は濃尾地震被災後、昭和の初めに当地に移転し、薬師堂と合併しました。
西網之坊の聖観世音菩薩を御本尊とし、昭和17年に西照寺と改名されました。ハス畑が美しく広がる愛西市において、当寺は西網之坊の歴史と古くから伝わる諸仏像を守り続けています。